レフェリーは選手(の命)を守れるのか:「田村彰敏×石毛大蔵 死線を越えて思うこと」Fight & Life Vol.72:115-117頁(取材・文_長谷川亮)を読んで

田村さんと石毛さん。試合中の脳挫傷、頭蓋内出血がきっかけで現役を引退した二人のインタビュー記事を読んで、田村さんの最後の試合映像をもう一度見直してみた。
あらためて見ても、この試合におけるレフェリーストップは適切であった。ファーストダウンで、しかも一発の追撃も許すことなく、レフェリーは試合を止めた。レフェリーの判断に非はまったくない。それでも、田村さんが生死をさまよっていた当時レフェリーは苦しんだ。

気のせいかもしれないが、この試合を境に、ストップが早くなったレフェリーが少なからずいるように思える。「ストップは遅いよりは早い方がよい」とよく言われる。たしかに事故は起こらない方がよい。もし自分が担当した試合で事故が起こったら辛すぎて、普通に生活が送れるかどうかも自信がない。だからと言って早すぎるストップが許されるというわけでもない。

レフェリーのことを「選手(の命)を守る」存在だと表現する人がいる。ある人はいくらかの敬意を込めてそう表現してくれる。また、レフェリーの中にも、自負をもって「選手(の命)を守る」と言葉にする人もいる。レフェリーが「選手を守る」という気持ちで試合に臨む気持ちは真剣であり尊い。

しかし、レフェリーに「選手を守る」ことが本当にできるのだろうか。脳やからだのなかで起こっていることを現場で認識することができるのか。生命の危険を察知する専門的な能力をもっているのか。誤解を恐れずに言うと、レフェリーは選手を守れない。少なくとも「選手を守る」という基準でレフェリーストップをコールすることはできない。逆に「選手(の命)を守る」という気概によってストップが早すぎた試合があったかもしれない。また、この言葉が早いストップの免責に使われてきたのではないかと思うこともある。

MMAはそもそも危険な競技である。その危険な競技のなかで試合をストップすべきときとはどのようなときか。それは競技において「余計な危険(ダメージ)」や「過剰な危険(ダメージ)」がもたらされるとき、と考えることができる。「これ以上のダメージは余計(過剰)である」。そのような状況になったときにレフェリーは試合をストップする。「この先は余計・過剰なダメージを受けるだけの状態」とは、すなわち、選手が知的なディフェンスをできない(できていない)状態である。

実際、MMAユニファイド・ルールはTKOとKOそれぞれのレフェリーストップを次のように定義している。
テクニカル・ノックアウト(TKO)「レフェリーは、選手が知的に自身を守っていなければ(not intelligently defending)試合をストップする。」
ノックアウト(KO)「レフェリーは、選手が自分自身を知的に守ることができなければ(cannot intelligently defend)試合をストップする。」

ルールに則り、選手が知的にディフェンスができるのか(ディフェンスしているのか)を見極める。もしディフェンスができていなければ、選手が余計な(過剰な)ダメージを受けないように試合をストップする。

選手の人生の可能性、あるいは競技者としての可能性を損なわないために、試合においてMMAレフェリーができることは「ルールをパーフェクトに理解し、それに則る」「試合に集中する」「フェアな判断・解釈をする」、それだけであるように思う。

田村さんと石毛さんが元気で、格闘技に関わり続けてくれていて、本当によかった。